秋薔薇と植物園

京都はバラ園のようなものがなく、かと言って、わざわざ時間かけて大阪や兵庫のバラ園を見に行くのもめんどうなので、ほとんど府立植物園で済ましています。花の数こそ広いバラ園には及ばないかも知れませんが品種が多いのが特徴で、珍しいバラを見ることが出来ます。
バラは春に咲くものと四季を通じて咲くものとがあり、秋に咲くバラは四季咲きのバラで、夏に剪定することで恣意的に秋に咲かせるように育てるのだそうですが、一株あたりの花数が春よりも少なく物足りなさがあります。特に今年は台風の影響で尚更かも知れません。それでも薔薇の写真を撮る程に奥深さを感じるのも薔薇の魔力なのでしょう。
今回は写真が多めで22枚(バラの写真は15枚)あります。いつもなら分載するのですが、一挙にアップしました。
画像1と2及び8以降はマクロレンズ使用。

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1.  山紫水明、北大路橋からの眺め。通る度によく撮る場所です。

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2.  植物園正門前のケヤキ並木が色づいていました。

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スマホでの逆光写真は露出補正が難しい

カメラについて知識のある人には当たり前のことなので以下は無視して構いません。
スマホにしろコンデジや一眼にしろカメラの露出はオートで撮るのが無難で、その上に露出補正を加えるのがセオリー。逆光の場合は暗くなりがちなので大抵はプラス補正をするのですが、どのくらい補正すれば良いのかはケースバイケースで難しいところです。しかし意外にもスマホやセンサーサイズの小さいコンデジほど難しい。何故ならこれらセンサーサイズの小さいカメラはダイナミックレンジが狭いので補正量の許容範囲も狭く、白とびや黒つぶれが出やすいからです。反対にセンサーの大きい一眼カメラ等のほうがダイナミックレンジが広いので補正量も広くとれ、しかもRAW撮影することで後処理にも強い利点があります。つまりセンサーサイズの小さいスマホやコンデジは露出補正が厳しく、センサーサイズの大きいカメラはわりとアバウトに露出補正してもRAW撮影していれば結果オーライなんてこと多いのです。
しかし最近はHDRモードを備えるスマホやコンデジが多いので逆光等による明暗差の大きな風景も撮りやすくなっています。ただしHDRモードで撮ると3枚を連写で撮って合成するので、ぶれやくなります。動き物や低速シャッターではよりぶれやすくなるので注意が必要です。
以下の3枚はスマホで普通に露出補正して撮った逆光写真ですが、2と3はアドビのライトルームにJPG画像を読み込んで後処理しています。ライトルームは現像ソフトですが、機能が限られたレタッチソフトにもなります。

KIMG0454_r2.jpg
1. この写真はそのまんまのJPG撮って出しです。露出補正は+0.3。暗い部分がつぶれているように見えます。

KIMG0454-lr_r2.jpg
2. 上と同じ写真をライトルームで処理した画像です。白とびを救うことは出来ませんが暗くて見えなかった
  電車等が見えるようになりました。

KIMG0457-lr_r2.jpg
3. 同じ場所から露出補正+0.7での撮影。同じくライトルームで処理しています。上の写真よりも白飛び部分
  が多いです。また夕焼けの色調がかなり喪失しています。JPGファイルでは白飛びを軽減する事は出来
  ませんが、白飛び寸前でぼんやりした部分を明瞭にしたり、暗くて見えない部分を見えるようにする事は
  出来ます。

以上の事から、HDRモードを使わない逆光写真はアンダー気味に撮って後処理するのがベターだと思います。
センサーサイズがコンデジよりも大きいカメラのRAWファイルならHDRモードを使わなくても現像で何とかなることが多いです。

 URBANO V02 (スマホ)

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植物園の台風被害、菊花展、コスモス

先月各地で被害をもたらした台風21号ですが、京都や近畿は21日夜に襲われ保津川下りの亀岡の係留場と嵐山の船着場が流失し長期休業に追い込まれました。修復作業の矢先に22号が来る事で工事が延期されましたが、間もなく紅葉シーズンとあって10日の営業再開を目指しているそうです。
京都府立植物園では大きな木が倒れたりしました。その様子を確かめる為もあって先週行きましたが時間がなく園内の一部しか廻れなかったので昨日も再び行ってきました。花の写真はいずれも先週の撮影です。昨日の写真(バラ)は次回以降アップします。

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1.  倒木の被害が一番大きいようでした。伐採、処理作業が大変そう・・・・・

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2.  

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早良天皇と上御霊神社

前回の天寧寺の程近くに上御霊神社(正式には御霊神社)があります。周囲は住宅街で鳥居前の道路はそこそこ車も通るのですが本殿の奥は樹木が多いので暗く静まりかえっています。祭神は崇道(すどう)天皇、井上(いのえ、いがみとも読む)大皇后と子の他部(おさべ)親王ら八柱。その多くはいずれも祟りとされた人々らしい。その中の崇道天皇は諡号(死後に尊厳を用いて贈る名)で生前の名は早良(さわら)親王。桓武天皇の弟で皇位継承者でもありました。
腐敗した奈良仏教と決別し、改革を推進するために天皇は河川が集合し地勢や交通の便が良い長岡京への遷都を決め造営(784年)しますが、その翌年に事件が勃発します。桓武天皇が最も信頼し政務を委ねていた藤原種継が暗殺されたのです。天皇は長岡京への遷都を進言した種継を誰よりも信頼し重用していました。急速に出世し先任の参議らを追い越して遷都の前年には中納言となり、今で言うなら大臣級の高い地位に昇格しました。出世を出し抜かれた周囲の者は当然面白いはずがありません。事件は種継と反目していた大伴氏一族の仕業と見做され大伴継人ら十数人を処刑、更には早良親王も事件にからんでいるとして長岡京の乙訓寺に幽閉しました。しかし早良親王への嫌疑は桓武天皇による企みで、天皇は息子の安殿親王を後継者にしたいが為に弟でもある早良親王に嫌疑をなすりつけ皇位継承の地位を剥奪する算段だったとも言われています。これには天智天皇(中大兄皇子)の血を継ぐ桓武天皇が抱いたある恐れが関係しています。
病床の身で先の短い天智天皇は枕下に天皇の弟(異説あり)・大海人皇子(後の天武天皇)を呼んで息子の大友皇子への後継の意志を告げます。大海人皇子はこれをすんなり受け入れ天智天皇の皇后と大友皇子に皇位継承権を譲り、自分は出家して吉野宮に下ります。しかしそれは見せかけの策略でした。天智天皇が山科で崩御すると手のひらを返し、それまでの政治に不満も抱いていた各地の豪族らを説いて信を得、集めた挙兵を率いて近江朝(天智天皇が造営した大津京は近江の国)に対抗し壬申の乱を起こします。激戦の末に瀬田橋の戦いで大海人皇子側が勝利すると大友皇子は自害し、大海人皇子は飛鳥に都を戻し天武天皇と称し即位します。兄の天智天皇と天智系一族を欺き皇位を奪い取った裏切者の大海人皇子(天武天皇)の悪夢に囚われていたとも言われています。早良親王は断食で身の潔白を訴えますが淡路島への流罪が決定、配流の途中で餓死してしまいます。
その3年後に桓武天皇の身内に不幸が起こります。夫人の藤原旅子が30歳で薨去すると翌年には桓武天皇の母高野新笠が病死。その翌年には息子の安殿親王の母でもある皇后の乙牟漏(おとむろ)が31歳で突然死します。その後も安殿親王の妃・藤原帯子が急死、安殿親王が原因不明の病魔に悩まされたり、長岡京に洪水が続き機内に天然痘が流行(790年)します。桓武天皇は陰陽師から早良親王怨霊により長岡京が呪われていると言われ、長岡京遷都のわずか10年後に和気清麻呂の提案を受けて平安京遷都を決行しました。先ず早良親王の鎮魂の為に建てたのが二つの御霊神社で、その一つがこの上御霊神社。もう一つが京都御所の南東角付近に建てられた下御霊神社です。そして崇道(すどう)天皇という称号を与え名誉を回復、両神社に祭られました。また大伴氏一族の名誉も回復させました。桓武天皇は天皇の地位の強化と多くの改革を成し遂げた類稀な政治の実力者でしたが、己の権力で犠牲になった人間の怨念にずっと悩まされてきました。平安京遷都はそんな怨霊から逃れる為だったとも言われています。

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天寧寺と上御霊神社の位置。
地図の外ですが京都御所の南東角には下御霊神社があります。大内裏から見て比叡山は鬼門の方角にありますが上御霊神社も同じ鬼門の方角。現在の御所は後年に造営されたので方角に意味はなさそうですが、御霊神社に近く、相国寺を間に南北を結ぶ線上にあるのは単なる偶然とは思えません。
上御霊神社や下御霊神社の「上」「下」は区別するために一般的に用いる名で、正式には上御霊神社は単に御霊神社と称し、下御霊神社は区別して下御霊神社と称します。地図でも「上御霊神社」と「上」を付けて表記している物と付けずに表記(Googleマップ)している物があるようです。   

04IMKP3587-lr_r2.jpg 1.  鳥居には菊の御紋が見えます。楼門の幕にも菊の御紋が入っています。

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tag : 桓武天皇 怨霊 祟り 早良親王 崇道天皇 長岡京遷都 藤原種継 天智天皇 大海人皇子

天寧寺(京都市北区)

今回は北区の寺町通沿いにある萬松山天寧寺(ばんしょうざん てんねいじ)を。地下鉄烏丸線鞍馬口駅から鞍馬口通を東へ5、6分歩くと寺町通に出ます。角に銭湯があり、そこを右に曲がると向かい側(東側)に天寧寺の駐車場と白壁が見え、やがて比叡山をバックにした山門が現れます。山門は比叡山の眺めの良さから額縁門と呼ばれています。元々比叡山延暦寺の末寺だったので門からでも比叡山を拝めるようにしたのかも知れません。
元からあった延暦寺の末寺は廃寺となっていましたが、天正年間(1573~1593)に直江兼続らの尽力によって会津若松から曹洞宗のお寺を引っ越し復興させました。ところが天明8年(1788)の冬、天明の大火(京都の歴史上最大の火災で、約65000世帯が住む家を失い御所、二条城、東西の本願寺も焼けました)で堂宇全てを全焼します。その後1812年に本堂が、1842年に書院が再建され復興しました。山門や本堂等の屋根瓦は菊の御紋が施され、格式の高いお寺である事が窺えます。
仏像等の寺宝も多く、公家流茶道宗和流の初代金森宗和(1584~1657)ゆかりの物が多く残され、宗和のお墓があります。また平成10年からの本堂修理工事の際には復興当時の本尊や明智光秀の位牌が屋根裏から発見され注目されました。
光秀と寺との関係は記録がないようなので謎ですが、個人的には明智光秀一族の墓がある坂本の西教寺と天寧寺の直線ライン上に延暦寺東塔と根本中堂が位置し、天寧寺の場所が元々天台宗のお寺があった地である事が目に止まりました。西教寺には琵琶湖を望む門があり偶然とは言え額縁門という共通点があります。明智光秀曹洞宗との関係は特に見られないものの同じ禅宗の臨済宗のお寺を建立したこともある光秀なので豊臣時代に臨済宗のお寺がこの光秀の位牌を隠し所有していた事も考えられなくもありません。意外と当時の臨済宗又は天台宗と曹洞宗の関係は深く、謀反の光秀の位牌を隠している事を疑われそうな臨済宗や天台宗の寺院ではなく敢えて曹洞宗の天寧寺に移したのではないかと想像出来なくもありません。本当は光秀は生き延びて天寧寺再興を裏から支えた為、後に供養塔が建てられ位牌を保管したと勝手ながら想像することも出来ます。天正年間の再興された年が明確でないのも、再興に当たっての光秀の関与が豊臣政権にばれないように記録を控え、目立たぬように成されたから・・・・というのはどうでしょうか? ←なんらの根拠も無く、かなり好き勝手言ってますね。でも西教寺と延暦寺、天寧寺との「光秀延暦寺ライン」(恐縮ながら勝手に名前つけました)は単なる偶然とは思えなく、とりとめなく想像してしまいました。

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1.  山門

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2.  額縁門と言われる比叡山の眺め。ただ正面奥左手の建物の一部がやや残念。
   ここからの一直線上に比叡山延暦寺と山を越えた向こう側に明智光秀とその一
   族が眠る西教寺があります。それ故にこの場所は京都から比叡山延暦寺を拝む
   と同時に光秀の墓に向かって手を合わせることにもなるのです。
   

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