早良天皇と上御霊神社

前回の天寧寺の程近くに上御霊神社(正式には御霊神社)があります。周囲は住宅街で鳥居前の道路はそこそこ車も通るのですが本殿の奥は樹木が多いので暗く静まりかえっています。祭神は崇道(すどう)天皇、井上(いのえ、いがみとも読む)大皇后と子の他部(おさべ)親王ら八柱。その多くはいずれも祟りとされた人々らしい。その中の崇道天皇は諡号(死後に尊厳を用いて贈る名)で生前の名は早良(さわら)親王。桓武天皇の弟で皇位継承者でもありました。
腐敗した奈良仏教と決別し、改革を推進するために天皇は河川が集合し地勢や交通の便が良い長岡京への遷都を決め造営(784年)しますが、その翌年に事件が勃発します。桓武天皇が最も信頼し政務を委ねていた藤原種継が暗殺されたのです。天皇は長岡京への遷都を進言した種継を誰よりも信頼し重用していました。急速に出世し先任の参議らを追い越して遷都の前年には中納言となり、今で言うなら大臣級の高い地位に昇格しました。出世を出し抜かれた周囲の者は当然面白いはずがありません。事件は種継と反目していた大伴氏一族の仕業と見做され大伴継人ら十数人を処刑、更には早良親王も事件にからんでいるとして長岡京の乙訓寺に幽閉しました。しかし早良親王への嫌疑は桓武天皇による企みで、天皇は息子の安殿親王を後継者にしたいが為に弟でもある早良親王に嫌疑をなすりつけ皇位継承の地位を剥奪する算段だったとも言われています。これには天智天皇(中大兄皇子)の血を継ぐ桓武天皇が抱いたある恐れが関係しています。
病床の身で先の短い天智天皇は枕下に天皇の弟(異説あり)・大海人皇子(後の天武天皇)を呼んで息子の大友皇子への後継の意志を告げます。大海人皇子はこれをすんなり受け入れ天智天皇の皇后と大友皇子に皇位継承権を譲り、自分は出家して吉野宮に下ります。しかしそれは見せかけの策略でした。天智天皇が山科で崩御すると手のひらを返し、それまでの政治に不満も抱いていた各地の豪族らを説いて信を得、集めた挙兵を率いて近江朝(天智天皇が造営した大津京は近江の国)に対抗し壬申の乱を起こします。激戦の末に瀬田橋の戦いで大海人皇子側が勝利すると大友皇子は自害し、大海人皇子は飛鳥に都を戻し天武天皇と称し即位します。兄の天智天皇と天智系一族を欺き皇位を奪い取った裏切者の大海人皇子(天武天皇)の悪夢に囚われていたとも言われています。早良親王は断食で身の潔白を訴えますが淡路島への流罪が決定、配流の途中で餓死してしまいます。
その3年後に桓武天皇の身内に不幸が起こります。夫人の藤原旅子が30歳で薨去すると翌年には桓武天皇の母高野新笠が病死。その翌年には息子の安殿親王の母でもある皇后の乙牟漏(おとむろ)が31歳で突然死します。その後も安殿親王の妃・藤原帯子が急死、安殿親王が原因不明の病魔に悩まされたり、長岡京に洪水が続き機内に天然痘が流行(790年)します。桓武天皇は陰陽師から早良親王怨霊により長岡京が呪われていると言われ、長岡京遷都のわずか10年後に和気清麻呂の提案を受けて平安京遷都を決行しました。先ず早良親王の鎮魂の為に建てたのが二つの御霊神社で、その一つがこの上御霊神社。もう一つが京都御所の南東角付近に建てられた下御霊神社です。そして崇道(すどう)天皇という称号を与え名誉を回復、両神社に祭られました。また大伴氏一族の名誉も回復させました。桓武天皇は天皇の地位の強化と多くの改革を成し遂げた類稀な政治の実力者でしたが、己の権力で犠牲になった人間の怨念にずっと悩まされてきました。平安京遷都はそんな怨霊から逃れる為だったとも言われています。

map17101.gif
天寧寺と上御霊神社の位置。
地図の外ですが京都御所の南東角には下御霊神社があります。大内裏から見て比叡山は鬼門の方角にありますが上御霊神社も同じ鬼門の方角。現在の御所は後年に造営されたので方角に意味はなさそうですが、御霊神社に近く、相国寺を間に南北を結ぶ線上にあるのは単なる偶然とは思えません。
上御霊神社や下御霊神社の「上」「下」は区別するために一般的に用いる名で、正式には上御霊神社は単に御霊神社と称し、下御霊神社は区別して下御霊神社と称します。地図でも「上御霊神社」と「上」を付けて表記している物と付けずに表記(Googleマップ)している物があるようです。   

04IMKP3587-lr_r2.jpg 1.  鳥居には菊の御紋が見えます。楼門の幕にも菊の御紋が入っています。

続きを読む

スポンサーサイト

テーマ : ■京都を撮る■
ジャンル : 写真

tag : 桓武天皇 怨霊 祟り 早良親王 崇道天皇 長岡京遷都 藤原種継 天智天皇 大海人皇子

天寧寺(京都市北区)

今回は北区の寺町通沿いにある萬松山天寧寺(ばんしょうざん てんねいじ)を。地下鉄烏丸線鞍馬口駅から鞍馬口通を東へ5、6分歩くと寺町通に出ます。角に銭湯があり、そこを右に曲がると向かい側(東側)に天寧寺の駐車場と白壁が見え、やがて比叡山をバックにした山門が現れます。山門は比叡山の眺めの良さから額縁門と呼ばれています。元々比叡山延暦寺の末寺だったので門からでも比叡山を拝めるようにしたのかも知れません。
元からあった延暦寺の末寺は廃寺となっていましたが、天正年間(1573~1593)に直江兼続らの尽力によって会津若松から曹洞宗のお寺を引っ越し復興させました。ところが天明8年(1788)の冬、天明の大火(京都の歴史上最大の火災で、約65000世帯が住む家を失い御所、二条城、東西の本願寺も焼けました)で堂宇全てを全焼します。その後1812年に本堂が、1842年に書院が再建され復興しました。山門や本堂等の屋根瓦は菊の御紋が施され、格式の高いお寺である事が窺えます。
仏像等の寺宝も多く、公家流茶道宗和流の初代金森宗和(1584~1657)ゆかりの物が多く残され、宗和のお墓があります。また平成10年からの本堂修理工事の際には復興当時の本尊や明智光秀の位牌が屋根裏から発見され注目されました。
光秀と寺との関係は記録がないようなので謎ですが、個人的には明智光秀一族の墓がある坂本の西教寺と天寧寺の直線ライン上に延暦寺東塔と根本中堂が位置し、天寧寺の場所が元々天台宗のお寺があった地である事が目に止まりました。西教寺には琵琶湖を望む門があり偶然とは言え額縁門という共通点があります。明智光秀曹洞宗との関係は特に見られないものの同じ禅宗の臨済宗のお寺を建立したこともある光秀なので豊臣時代に臨済宗のお寺がこの光秀の位牌を隠し所有していた事も考えられなくもありません。意外と当時の臨済宗又は天台宗と曹洞宗の関係は深く、謀反の光秀の位牌を隠している事を疑われそうな臨済宗や天台宗の寺院ではなく敢えて曹洞宗の天寧寺に移したのではないかと想像出来なくもありません。本当は光秀は生き延びて天寧寺再興を裏から支えた為、後に供養塔が建てられ位牌を保管したと勝手ながら想像することも出来ます。天正年間の再興された年が明確でないのも、再興に当たっての光秀の関与が豊臣政権にばれないように記録を控え、目立たぬように成されたから・・・・というのはどうでしょうか? ←なんらの根拠も無く、かなり好き勝手言ってますね。でも西教寺と延暦寺、天寧寺との「光秀延暦寺ライン」(恐縮ながら勝手に名前つけました)は単なる偶然とは思えなく、とりとめなく想像してしまいました。

0IMKP3521-lr_r2.jpg
1.  山門

0IMKP3570-lr_r2.jpg
2.  額縁門と言われる比叡山の眺め。ただ正面奥左手の建物の一部がやや残念。
   ここからの一直線上に比叡山延暦寺と山を越えた向こう側に明智光秀とその一
   族が眠る西教寺があります。それ故にこの場所は京都から比叡山延暦寺を拝む
   と同時に光秀の墓に向かって手を合わせることにもなるのです。
   

続きを読む

テーマ : ■京都を撮る■
ジャンル : 写真

tag : 神社仏閣 曹洞宗 明智光秀 比叡山延暦寺 額縁門 芙蓉 シュウメイギク 秋明菊 西教寺

西国21番札所穴太寺を訪ねる

曽我部町の彼岸花を見る前に西国三十三カ所観音霊場の一つ、穴太寺を訪ねました。
寺伝では慶雲2年(750年)創建。ご本尊は薬師如来と聖観世音菩薩(どちらも秘仏)ですが、観世音菩薩は身代わり観音で知られ33年毎に御開帳されます。
安寿と厨子王丸の伝説で、厨子王丸を山椒大夫の追っ手からかくまったお寺の一つとも伝われ、姉の安寿が厨子王丸を京に逃がす時に持たせ、後に本寺に奉納されたと言われる肌守御本尊が、今年の5~6月に一般公開されています。
本堂の右奥には等身大の釈迦如来大涅槃像(鎌倉時代)があり、参詣者は自分の体の悪い箇所と同じ尊像の部分を撫で、自分の体をさすり返すとお釈迦様の御利益に与れると言われています。

01G8P1090558-lr_r2.jpg
1.  仁王門。17世紀中頃建立

01G8P1090663-lr_r2.jpg
2.  本堂は享保13年に焼失後同20年(1735)に再建されました。

続きを読む

テーマ : ■京都を撮る■
ジャンル : 写真

tag : 亀岡 日本庭園 多宝塔 書院 方丈庭園 襖絵 LUMIX

伏見稲荷大社本宮祭万灯神事 2

同じ「万灯」がつく行事でも万灯会とは意味が違い、万灯会はお寺等がお盆に先祖をお迎えする為の行事であるのに対し、万灯神事は神社等が神様に祈願や感謝をする行事。そういう意味では疫病退散等を祈願した祇園祭の宵山も万灯神事と言うことが出来るのではないかと・・・・?
また8月は終戦の月でもあり、戦没者の慰霊とお盆が重なる特別な月です。8月の神社の参拝では個人が自分の思いで世界平和を願い、戦没者を慰霊するのが良いと思います。8月は暑く、遠くの大きな神社や戦没者を慰霊する神社にお参りするのがしんどい場合は近くの小さな神社でもいい。私も8月はほとんど社寺にお参りすることがないので、せめて原爆の日と終戦記念日は、その場で黙祷するように心がけたいものです。

G8P1090236-lr_r2.jpg
1.  闇夜に赤く・・・・

G8P1090245-lr_r2.jpg
2.

続きを読む

テーマ : 祭り/イベント
ジャンル : 写真

tag : 千本鳥居 伏見稲荷大社 提灯 灯籠 本宮祭 夜祭

伏見稲荷大社本宮祭万灯神事

祇園祭後祭山鉾巡行の前日、伏見稲荷大社では本宮祭がありました。
本宮祭は、稲荷大神のご分霊を祀る全国の崇敬者が総本宮に参拝し、日々の御神恩に感謝する大祭(伏見稲荷大社HPより)です。22日の宵宮と本宮祭23日は、夜に境内一帯に奉納された提灯や灯籠に灯がともされ、朱塗りの建物や鳥居がより赤々と浮かび上がって幻想的な雰囲気に包まれます。

G8P1090141-lr_r2.jpg
1.  遅い時間に出動。でも門前はまだ人多し。すぐ後ろがコンビニ店でこれ以上後ろに
   下がれず、換算24mmでも鳥居の左右端が切れてしまいます。

G8P1090151-lr_r2.jpg
2.  一体いくつの提灯があるのでしょうか? 鳥居と同じく数えると気が遠くなりそう。

続きを読む

テーマ : 祭り/イベント
ジャンル : 写真

tag : 伏見稲荷 宵宮 万灯行事 ライトアップ 神社 提灯

5月の宇治平等院

日本の貨幣にも描かれている鳳凰鳳凰堂で知られる平等院。
GW後半はが見頃だったようですが、混むので連休明け早々に行きました。前の日も同じ宇治の三室戸寺に行ったので呆れたものですが、そこまでしてGWを避けたかったのです。(^^)
さすがには花がやや少なくなっていて見頃とは言い難い状態でしたが、場所や撮り方で何とかごまかせそうなので良い部分だけを狙って撮りました。(^-^;

(横位置の縮小されたプレビュー画像は元画像より画質が若干落ちています。画像クリックで元画像が表示されます)

1-P1070021-lr_r2.jpg
1.   JR宇治駅に近い宇治茶の老舗中村藤吉本店。帰りに寄ることに。

1-P1070294-lr_r2.jpg
2.   こちらは帰りに寄った時の写真。抹茶とほうじ茶のフィナンシェを買った時
     、お店の座敷奥に飾ってあった鎧兜に目が止まりパシャリ。

続きを読む

テーマ : 花・植物
ジャンル : 写真

tag : 宇治 中村藤吉 鳳凰 新緑

初夏の妙心寺退蔵院

今回は妙心寺の退蔵院です。妙心寺には46もの塔頭がありますが、通年公開している寺院は3か所だけ。その一つが退蔵院です。四季折々の花が咲くようですが、今回はが目当て。しかし・・・・

(横位置の縮小されたプレビュー画像は元画像より画質が若干落ちています。画像クリックで元画像のまま表示されます)

P1060558-lr_r2.jpg
1.   妙心寺仏殿

P1060565-lr_r2.jpg
 2.   退蔵院の受付から玄関に向かうと紅葉が待ち受けていました。

続きを読む

テーマ : 季節の風景
ジャンル : 写真

tag : 枯山水 庭園 禅寺

建仁寺 -2-

前々回の建仁寺の続きです。禅宗寺院の発祥地にして大本山の建仁寺ですが、今時にしては珍しく撮影禁止の注意書きはほとんど見当たらず、うれしいことにかなり写真撮影が自由です。
ところで、俵屋宗達の風神雷神図と海北友松(かいほうゆうしょう)の方丈襖絵はキヤノンのカメラとプリンターによる高精細デジタル複製です。詳しくはこのページ末のリンクを。
複製だと長年の時を経た風合いとか重みはないかも知れませんが、本物では失った元の色の美しさや輝きを再現(単なる高精細複製ではなく和紙に印刷し必要に応じて金箔を使用)しているので、それはそれで良いと思います。長い年月が経てば風合いが出てくるかも? 複製なので撮影禁止する必要もなく、こうして誰もが作品に身近に接するメリットも。原本の保存の為には人の目に触れる機会が減るのは致し方なく、その代わりとしてのデジタル複製化と公開は今後更に増えていくでしょうね。

P1180841-lr_r.jpg
1.   書院東側の渡り廊下。書院は潮音庭を囲む回廊で結ばれ、その東西が渡り廊下です。

P1180845-lr_r.jpg
2.   方丈北側の庭

続きを読む

テーマ : ■京都を撮る■
ジャンル : 写真

tag : 雲龍図 双龍図 天井画 海北友松 襖絵

建仁寺 -1-

今回は臨済宗建仁寺です。昨年12月中頃で、紅葉も枯葉が多いながら残っていました。
建仁寺は日本に禅をもたらし臨済宗を開いた栄西禅師により開山された日本で一番古い禅宗寺院です。また栄西禅師は茶種を宋から持ち帰って栽培し、日本に普及させた茶の元祖でもあります。
今回は珍しくズームレンズではなく全て15mm(35ミリ換算30mm)単焦点レンズだけで撮りました。

P1180778-lr_r.jpg
1.  本坊入り口から入って書院や方丈等を拝観します。

P1180792-lr_r.jpg
2.   ○△□乃庭  禅宗の四大思想(地水火風)を、地(□)
    水(○) 火(△)で象徴したものだと言われています。

続きを読む

テーマ : ■京都を撮る■
ジャンル : 写真

tag : 栄西禅師 禅寺 風神雷神 石庭 祇園

龍安寺石庭の謎

昨年12月に龍安寺の紅葉の記事をアップしましたが、敢えて残していた方丈石庭の写真をようやくアップする事になりました。以前にも書きましたが、龍安寺の石庭は謎だらけで、それについて書かれた本やサイトを参照した上で記事にしたかったので、今になった次第です。
龍安寺は細川勝元によって1460年前後に建立されましたが、あまりにも有名な石庭はいつ頃、誰が何のために作ったかは定かではなく長年の謎に満ちているそうです。その為、作庭者や石組の意味についての様々な説が多くの研究家によって発表されてきましたが何れも決定打に欠けるものでした。
今回参考にした「龍安寺石庭を推理する」(集英社新書)の著者宮元健次氏は庭園史、庭園デザインのエキスパートで、多くの著書が出版されています。

P1180547-lr_r2.jpg
1.   825 x 550
本書によると、龍安寺石庭は西洋のパースペクティヴ(遠近法)や黄金比が数多く見られると言います。
フランシスコ・ザビエルに始まるキリシタン文化の浸透は、とりわけ禅寺にも影響を与え、大徳寺塔頭寺院の創立者には以前紹介した瑞峰院のキリシタン大名大友宗麟や高桐院の細川ガラシャ等のキリシタンやその関係者が8人もいます。大徳寺を復興した一休宗純周辺にキリスト教信者や関係者が多かったのもその理由なのですが・・・・・(以下は個人的にネット等で調べた事柄も織り交ぜています)
堺はザビエルが布教で来航して以来日本一の貿易港としてめざましく発展した為、堺の商人は裕福でした。西洋人の物の考え方や文化にも慣れ、好意的なお金持ち商人も多かったと思います。新興宗派がこぞって堺にお布施を求めて布教活動に乗り出すのも至極当然の成り行きでした。一休和尚も禅宗を堺に広める意味で何度も訪れます。(本書では何故か一休和尚が堺出身となっていて、この点は残念。第2版があるなら本屋さんで確認しとこー) 女好きで堺では遊女と同居生活を送ったという話まであります。真偽はともかく枠にとらわれない自由人で誰とでも社交的な一休和尚が堺での人との交流の中で西洋文化に興味と理解を示したことは容易に想像されます。高僧でありながら高ぶらず、むしろ権威や権力に真っ向から逆らい、破天荒で人間くさい人柄で民衆や貴族にまで幅広く好かれていましたが、更に堺商人の心をも掴みました。後に一休和尚の元に参禅し、応仁の乱で焼失した大徳寺の再建に全財産を託した堺の豪商尾和宗臨もその一人でしょう。
しかし大徳寺とキリスト教との関係が進むのはもっと後の話。後に堺には利休が生まれ、利休が修行した禅寺南宗寺(大徳寺の末寺)とのつながりから堺の茶道関係者によって大徳寺と西洋文化が結びつけられ、それが仏教と相対立するキリスト教を受け入れる下地になったと考えられます。キリスト教や西洋文化がすっかり浸透した江戸時代初期には西欧手法をとり入れた庭等が禅寺を中心に作られます。禅寺と茶の湯文化という流れの中で、これまでも名園を手掛けた有名な人物(名前は本書を手にして確認の程を)が龍安寺の作庭者ではないかと著者は推理します。

P1180548-lr_01r.jpg
2.   手前Aの石を大きく、奥の石を小さくする事で遠近感を利用し広く見せているそうです。
    塀が低い(塀の外側は高く内と外との高低差は大きい)のは庭を広く見せる為だと思った
    のですが、本書では石清水八幡宮を借景として礼拝する為であると言います。標高約100
    mの龍安寺でも方丈は境内の高い場所にあるので、当時は遠くまでよく見渡せたのでしょう。
    

続きを読む

テーマ : ■京都を撮る■
ジャンル : 写真

tag : 石庭 枯山水庭園 石組 西欧手法 遠近法 黄金分割 五芒星

プロフィール

京あられ

Author:京あられ
生まれも育ちも京都の生粋の京都人
趣味は写真

最新記事
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク